哲学する日記

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映画『脳男』をレンタルして観た感想。

映画『脳男』がレンタルしていたので、観た。

結論としては、おもしろかった。

原作は読んでないので、原作との比較はできません。

原作と大きく違うらしいという噂を聞いているけど、具体的にどこがどう違うか私は知らない。

映画『脳男』は脳男を演じる生田斗真をかっこ良く魅せるための映画と言える。

だから、これは人気ミュージシャンのPVと同じ類と言える。

でもPVと違うのは、映画に出るために俳優は真剣に肉体作りをして、演技の練習をしていたと思う。

そして撮影スタッフも生田斗真をかっこ良く撮るために、普通PVより何百倍も苦労したと思う。

でも私は生田斗真のファンではないので、松雪泰子をメインに観てしまった。

 

映画『脳男』は松雪泰子が主役の映画と考えていいと思う。

女性二人組の爆弾魔は必要なかったと思う。

生田斗真をかっこ良く撮るために爆弾魔は必要なのだけど、物語の必然性の理屈から言えば、存在しなくても困らない。

江口洋介演じる刑事も、松雪泰子演じるカウンセラー・鷲谷真梨子と脳男を会わすという役目しかしか必要ない。

でも脳男がテロリストの容疑者として逮捕される必要性も無かったと思う。

脳男がカウンセラー・鷲谷真梨子の患者になれば物語は始まる。

重要なのは脳男が、鷲谷真梨子の弟を殺した犯人を殺すことにある。

 

映画『脳男』は、脳男がカウンセラー・鷲谷真梨子を救済する物語だ。

映画では江口洋介演じる刑事の役目は、脳男と鷲谷真梨子を会わすことと、鷲谷真梨子の命を爆弾魔から救うことだった。

でも爆弾テロ事件を映画から無くして、鷲谷真梨子と脳男が爆弾魔から命を狙われることがなくなれば、江口洋介演じる刑事の役目はほとんどゼロだ。

鷲谷真梨子と一緒に脳男の過去を調べる必要性はあったのだろうか?

鷲谷真梨子一人でも調べることはできたと思うんだけど。

 

脳男と鷲谷真梨子は対照的な性格として描かれる。

カウンセラー・鷲谷真梨子は一生懸命に生きているけど、ドロ沼状態だ。

真剣に仕事をしても満足行く結果がでない。

そして感情が豊かなので、辛い日々を送っている。

脳男は辛いという感情が無いから、辛くない(ように見える)。

脳男は人を簡単に殺せて、罪悪感を感じ無い。

それに対して鷲谷真梨子は自分だけでなく他人が人を殺すことも禁止しようとする殺人否定論者だ。

しかも拷問も否定すると思われる。

どうな残酷なことをした人でも、精神の治療して、社会復帰すべきという思想の持ち主で、自分の弟を殺した犯人を一生懸命に治療しようとしている。

でも裏切られる。

 

鷲谷真梨子は全身全霊で仕事をする。

しかも母と患者のために上司に逆らう。

出世欲もなく、自分の救済ではなく他人の救済のために頑張るけど、報われない。

報われないマザー・テレサあるいは女性版デクノボー(『雨ニモ負ケズ)みたいな存在だ。

 

そんな女性版デクノボーを救済するのが脳男だ。

脳男は殺人マシーンなので、設定上感情がないことになっている。

実際は感情がないのではなく、感情を押し殺しているということになっている。

そして鷲谷真梨子の優しさのおかげで押し殺していた感情が復活して、恩返しをする。

 

この映画で必要な人物は・・・

1 カウンセラーの鷲谷真梨子

2 脳男

3 鷲谷真梨子の弟を殺した人物で、鷲谷真梨子の患者

4 鷲谷真梨子の母

 

結論としては、映画『脳男』は不条理な状況で苦しんでいる女性を、イケメンが救う物語だ。

それは爆弾魔の魔の手から守ることではなく、鷲谷真梨子の弟を殺した犯人を殺すことにある。

そして殺した後に鷲谷真梨子と電話で話すことにある。

だから映画の進み方としては、爆弾魔が死んだ後に、鷲谷真梨子の弟を殺した犯人を殺すシーンが来るのは変だ。

爆弾魔のシーンは妄想とすればいいけど。

脳男と鷲谷真梨子の弟を殺した犯人が刑務所の入り口で出会った後でないとリアリティが無い。

この映画は爆発シーンなどリアリティが無く、インパクト優先だけど。

刑務所の入り口で犯人と出会った後に、脳男が脱獄して、犯人の住んでいるアパートに殺しに行くというのが普通の順番。

爆弾魔と刑事と戦って全身大怪我になった後で、すぐにアパートに殺人に行くというのは無理がありすぎる。

でもお祭り騒ぎ(爆弾魔との戦い)が終わった後に大事なシーンが来るという見せ方は、観客を感動させると思ったのだろうし、演出方法としては、正解だと思う。